九鬼家 歴史の荒波 越え明治へ
九鬼氏は、江戸時代には摂津三田藩主家と丹波綾部藩主家の2家が続き、明治維新後、両家とも華族の子爵家に列した
戦国時代初期、九鬼氏は伊勢北畠氏に仕えていたが、北畠氏の勢力範囲が弱まると、織田信長の幕下に入った
信長が北畠氏を侵攻した際、当時の当主であった九鬼嘉隆は織田勢を後ろ盾に、妻の実父である橘宗忠他、付近の小勢を制圧し、志摩国一円を手中に収めた
九鬼氏は信長の海戦部隊として伊勢長島の一向一揆の討滅戦において活躍、石山本願寺攻略戦において、第二次木津川口の戦いでは鋼鐵で外板を覆った鉄鋼船を用いて毛利水軍をことごとく追い払った
信長没後は織田信雄に仕えたが、蟹江城合戦にて秀吉方に寝返り、天正13年(1585)、従五位下・大隅守に叙位・任官された
九州征伐、小田原征伐に参加し、文禄・慶長の役では水軍の主力として功を挙げた
このような戦功の結果、気半島の制海権を与えられ、5万石の大名になった。この後、嘉隆は息子守隆に家督を譲って隠居する。こうした経歴から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった
石田三成挙兵の報を受け、家康の上杉討伐に参加していた九鬼守隆は急遽志摩に戻る。そして西軍方で桑名城に篭城した氏家行広らを破り、東軍最初の勝報を挙げた
一方で、三成に加担要請され西軍についていた嘉隆は、娘婿である堀内氏善と鳥羽城を占拠してしまう。この後、守隆と嘉隆は城外で合戦するも決着はつかなかった
しかし関ケ原の戦いでの西軍敗北が伝わると、氏善が逐電、嘉隆は退去、逃亡したため、騒乱は収束した
そののち、守隆は桑名城戦での功で鳥羽城を安堵された。また守隆は家康から嘉隆の助命の許しを得るが、その報を受け取ることなく嘉隆は逃亡先で自刃した
九鬼守隆は鳥羽城主として5万6000石を領したが、仏門に帰していた五男九鬼久隆を還俗させ、後継者にしようとしたところ、三男の九鬼隆季から猛反発をうけ、家督争いとなった。守隆の死後も家督争いは続き、1633年に江戸幕府により九鬼家は代々領土を守ってきた志摩国の領地を召し上げられ、久隆は三田藩3万6000石、隆季は綾部藩2万石に移された。いずれも海には面しておらず、これにより九鬼氏はその水軍力を喪失した











