三成公 敗軍の将 露と消え
光叡山「徳明寺」
立派なお寺です
寺宝として三成公縁者の書簡(軸装)、古田織部の書簡(軸装)があるようです
古田織部が三成公に贈った井戸茶碗もあるとか
古田織部:武士として美濃国の守護大名土岐氏に仕えていましたが、永禄9年(1567年)頃から織田家に仕えるようになり、織田信長の家臣として使番を務めました
朝鮮出兵が行われる少し前の天正10年(1582年)から豊臣秀吉に仕えていた茶人・千利休の書簡に古田織部の名前が登場し始めます
大谷吉継:敦賀5万石の領主
吉継は挙兵を「無謀」と三成を責め、三成の嫡子である石田重家を伴い、家康と景勝を和解させるため、病身をおして会津に行くつもりだと述べたものの、熟慮したうえで同意したとされる
関ケ原では吉継は病の影響で陣中から動かず輿に乗って軍の指揮を執ったとされる
辞世の句、契りとも 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも
吉継は自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん(三年の間に必ずや祟ってやる)」と言って切腹したが、この祟りによって、秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に狂乱して死亡に至ったという噂がある
真田信繁の正室・竹林院は吉継の娘とされているが、妹や姪とする説もある
石田正継:学問の志が深く、才文武を兼ね、学は和漢を通じ、『万葉集』をひもとき、和歌を詠ずる風流心があったという才人で、醒ヶ井の松尾寺から60巻の書籍を借り読破し、三成にも読ませようとしたという
関ヶ原では西軍に与し、佐和山城の本丸を2,800人で守備した。関ヶ原で西軍が敗れると東軍の1万5,000人が城に押し寄せたが、小早川秀秋らの猛攻に半日抵抗して家臣の多くを脱出させた後、18日に正澄と共に自刃して果てた











