磐余の宮 ヤマト王権 根拠地

用明天皇磐余池辺雙槻宮跡伝承地

「大和志」に双槻(なみつき)神社と呼ばれていたことから伝承地の一つとなっている石寸(いわれ)山口神社です

吉備春日神社辺りは、585(敏達天皇14)年、第31代・用明天皇が宮とした磐余池辺双槻宮跡の伝承地のひとつとされる。
 しかし、双槻宮は厩戸皇子が斑鳩宮に遷るまで住んだ上宮の北に位置するとされたが、1986(昭和61)年、吉備春日神社の東南東に上宮跡とみられる上之宮遺跡が発見され位置関係に矛盾が生じたことで、吉備春日神社の双槻宮説は可能性は低くなった

むしろ、位置関係からすれば、もう一つの伝承地である石寸山口神社のほうが合致する。ただ、磐余池の確定など含め、疑問点は多く宮跡の確定には至っておらず、今後の調査が待たれる 

用明天皇は王朝において仏教を公認し、後の仏教隆盛の礎をつくったが、疱瘡のため在位2年足らずの587(用明天皇2)年4月に崩御し磐余池上陵に葬られたのち、593(推古天皇元)年9月に河内磯長原陵に改葬された

磐余池上陵は後者の磐余池辺双槻宮の辺りとする説もある。なお、吉備春日神社の北側には「神武天皇聖蹟磐余邑顕彰碑」が建ち、南側には百済大寺と考えられる吉備池廃寺跡を含む吉備池がある

「磐余の邑」は、奈良盆地の東南端に位置し、ここから眼前に広がる桜井市の西部地域を指した古代の地名です

日本書記に記された神武東征の物語には、「磐余の地の旧名は、片居または片立という。大軍集いてその地に満(いは)めり。因りて改めてその地を磐余とする」との記述があり、神武天皇の和風諡号にも神日本磐余彦天皇と「磐余」が含まれています

この地は、古代ヤマト王権の根拠地として、履中天皇の磐余稚桜宮、清寧天皇の磐余甕栗宮、継体天皇の磐余玉穂宮、神功皇后の磐余若桜宮、用明天皇の磐余池辺雙槻宮などの諸宮があったと伝えられています

履中天皇の条には、「磐余池を作る」と記されています。現在、池は存在しませんが、池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が残されており、近年の発掘調査では、この地域に池があったのではと推定される遺構が出土しています

用明天皇の御代はここ「雙槻(なみつき)の宮」の三年で閉じられることになり、最初は当地で葬られましたが後に大阪府太子町春日に改装されました