半兵衛は 稀代の知略家 軍師たる

田園地帯を歩く

竹中半兵衛墓へ向かう

重虎、のちに重治。通称は半兵衛

父は竹中重元、子に重門、従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)

美濃斎藤氏の家臣で美濃国大野郡大御堂城城主・竹中重元の子として同地に生まれる

弘治 2年(1556)長良川の戦いが初陣

斎藤道三に味方したが、父が不在のため代わりに大将を務めた。籠城戦の末、斎藤義龍の軍を退けている。

永禄元年(1558)、父は不破郡岩手城主・岩手弾正を攻略し、永禄2年(1559)、菩提山城を築いて居城を移し、重治もこれに従う

永禄3年(1560)、父の死去または隠居(一説に父の死去は永禄5年(1562)とも)により家督を相続し、菩提山城主となった。そして長良川の戦いで勝利した美濃国の国主・斎藤義龍に仕えた。永禄4年(1561)に義龍が死去すると、その後を継いだ斎藤龍興に仕える

しかし義龍が死去すると、後を継いだ龍興は若年だったために家臣団に動揺が走り、一転して織田氏の侵攻を防ぐことが困難となった。そのような状況を見た信長は永禄4年(1561年)7月に美濃に侵攻し、永禄6年(1563)にも新加納で織田勢と戦い、このときも重治の戦術のために斎藤勢は勝利したという

永禄10年(1567)、織田信長の侵攻により斎藤龍興が稲葉山城を追われ、没落すると斎藤家を去り、北近江の浅井長政の客分として東浅井軍草野に3,000貫の禄を賜るが、約1年で禄を辞して旧領の岩手へと帰り、隠棲した

※平井山の東南麓にある栄運寺(1692年開山)にも墓があり、位牌が祀られています。半兵衛は1579年に36歳で亡くなっており、栄運寺に祀られたのは113年後

元亀元年(1570)夏、織田軍の浅井攻めの際に木下秀吉が「美濃国人竹中氏、牧村氏、丸毛氏」を与力に加えたいと信長に要請して許されたことが岳なっか重門の著した『豊鑑』に記されている

後に信長包囲網が敷かれ、信長と浅井長政が敵対関係になると、重治は浅井家臣団との人脈を利用して、主に調略活動で活躍した。元亀元年(1570)には浅井方の長亭軒城や長比城を調略によって織田方に寝返らせている。直後の姉川の戦いにも安藤守就の部隊に参加した。この合戦の後に信長の命で横山城に秀吉とともに残し置かれ、この頃から信長直臣から秀吉の与力へと転じたと推測される

秀吉が中国攻めの総大将に任じられると、重治は秀吉に従って中国遠征に参加する。 天正5年(1577年)11月、秀吉幕僚の黒田孝高とともに播磨の福原城を攻める(『信長公記』) 。天正6年(1578)5月24日、宇喜多氏の備前八幡山城の城主を調略成功によって落城させ、この報告のため京都に赴き信長に賞賛され銀子100両を授けられて播磨へと帰陣した(『信長公記』)

同年、信長に謀反を起こした荒木村重に対して(有岡城の戦い)、黒田孝高が有岡城へ赴き帰服を呼びかけるが、城内で捕縛・監禁され外部との連絡を断たれたため、信長は孝高が村重に加担したと思い込み、孝高の嫡男・松寿丸(後の黒田長政)の殺害を秀吉に命じた。しかし重治は信長の首実検に際し、秀吉に偽の首を提出させることで松寿丸の命を助け、松寿丸は自身の領地に引き取り、家臣の不破矢足の屋敷に匿った。のち、助け出された孝高はこのことを非常に感謝し、竹中家の家紋を貰い受けている