戦国の世 敗ければ終わり 露と消え
天守台から美嚢川、三木市街
長治公辞世の句
今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身とおもへば
離反した長治に対し、秀吉はすぐに三木城攻めを行う
天正6年4月には野口城が落とされ、7月には神吉城や志方城が落城するなど、三木城の支城は次々と失われていった
籠城中の天正6年4月、理由は不明だが、参議の冷泉為純・為勝父子を殺害している
毛利方から三木城への兵糧搬入経路が断たれ苦戦する中、天正7年(1579)9月、毛利氏や本願寺からの援軍とともに三木城を包囲する織田軍を攻め、織田方の武将・谷衛好を討ち取っている
しかしその後、包囲はより厳重になり、「三木の干し殺し」と呼ばれる
兵糧攻めが本格化し、籠城開始から2年後の天正8年(1580)1月、長治・友之(弟)・吉親の切腹と引き換えに城兵を助命するとの条件で開城を決めた
秀吉からの贈物で最後の宴を催した後、長治は妻子や弟らとともに自害
介錯は家臣の三宅治忠が行った。享年23
なお、別所重宗の嫡子で後の八木藩主・吉治が実は長治の子であるとする系図が伝えられており、落城の際に連れ出され落ち延びたものとしている
「北摂三田の歴史」等で紹介される『上津畑ノ庄茶臼山記』という史料によると、家臣の後藤基国(後藤基次(又兵衛)の父)が、長治の千代丸という8歳の子を乳母、家来とともに上津城に逃がし、同城落城後に千代丸は帰農したとされている
湯ノ山街道ナメラ商店街へ下りる階段











