長治公 歴史の渦に 巻き込まれ
別所長治公像
別所長治(通称小三郎):永禄元年(1558)に別所安治の子として生まれる
父・安治が没すると叔父の吉親(賀相)・重宗(重棟)を後見役に若くして家督を継ぐ
別所氏は早くから信長に従っており、家督を相続した長治は天正3年(1575)7月に信長に謁見、その後たびたび上京し信長に挨拶している
天正5年(1577)2月、信長が紀州征伐へ出陣すると、別所氏もこれに加勢
『信長公記』には長治の名があるが、長治自身は参陣せず、重宗を派遣したと考えられる
天正5年10月、梁間平定のため羽柴秀吉が送り込まれてくる
三木城縄張り図
秀吉は播磨の国衆から人質を徴収して播磨の大部分を平定し、織田氏と敵対する毛利方の上月城(播磨西端、兵庫県佐用町)を落城させ、長治は秀吉に協力する姿勢を見せていた
播州三木古城図
しかし天正6年(1578年)2月、長治は織田氏から離反、三木城に立て籠もり毛利氏に通じた
28砦配置図
この離反については、秀吉や信長に不信を抱いていた叔父・吉親の勧めによるものといわれ(『別所長治記』)ている
三木城址経緯
毛利氏のもとにいる足利義昭から離反工作を受けていたことからその影響が考えられる(「吉川家文書」)
本丸から美嚢川、三木市街
また、別所氏以外の播磨の有力国衆らもこの時織田氏から離反しており、別所氏単独での行動でなく、それら国衆と連携したうえでのものである可能性がある











