手速比咩 宝達山に 鎮座せり

手速比咩神社 上社

日本國土全部を御平定の後出雲の國に凱旋せらるるに當り吾妻の地名を遺された

手速比咩命は大凡3000年の昔越の國の國津神奥津久辰爲(おきつくしゐの)命の姫神にて賢女にましませし事は古事記の沼河姫命の記事にておして知る可しであります

泰澄大師は地方民の最も崇敬篤かりし山麓に祀りてある手速比咩神を尊崇致しまして手速比咩神は常に此の森嚴なる寶達山に御鎭座ましますなり

荊棘を拓きて嶺上に神祠を建てて大御前と稱し其の下に伽藍を建立し次で僧坊七つを造營し元正天皇の御時には勅願所に定められ戰國時代までは神官社僧共に奉仕し神祠の尊嚴御神徳と共に四圍を普照せしも世の變遷と共に遂に廢寺に歸し僅に一小祠を存するに至れりと

天正年間近江八平なる者御神託に據り寶達山に金鑛の鑛脈を發見し前田利長卿藩費を以て之を採掘せられ慶長年間嶺上神祠を再建して御神靈を手速比咩五柱神社と尊崇し御祈願ありしと云ふ

今尚伽藍跡、坊屋敷、雄池雌池の遺跡を存せり、教のあと徴すべきであります

能登半島最高峰一等三角点637m

生駒山より5m低い

雨が降り出し立山連峰の眺望は無し

昼食タイム

山の一帯はオウレン、マタタビ、キハダ、センブリなどの薬草が豊富でクズや自然薯を産することでも有名

山腹は殆どが広葉樹二次林や人工林のスギ林が広がる

かつてこの一帯は周辺村落の共有地であったが過伐採により荒廃し水害が多発するようになった為、各集落に土地を分担して植林などを担わせるようになった