幼少期 手習いをした 光明寺
飛梅天満宮赤鳥居
隣接する時宗・横笛山「光明寺」
このお寺は信長と秀吉が手習いに通ったお寺と云われています
秀吉が幼少期に修行した寺と言い伝わっています。悪童であったため、怒った寺の僧が追い出しにかかると本尊の首まで落として暴れまわった逸話が、絵本太閤記などに記されています
弘安5年(1282)、一遍上人の弟子である他阿真教による開基で、萱津道場と呼ばれた大寺で、室町将軍からも保護を受けたという
『太閤素性記』等は、豊臣秀吉が幼少の頃に預けられのは、この光明寺だと伝える
7歳で父と死別した秀吉は、8歳で当寺に入るも、すぐに飛び出し、15歳の時、放浪に出たとされる
後に秀吉が関白となり、小田原の北条氏を降した凱旋の帰途、光明寺に立ち寄ったところ、当寺は天下人秀吉を大いにもてなす
しかし、『自分が源氏か平氏の子孫だという系図を作ってほしい』という秀吉の頼みを断ったため、怒った秀吉にとり潰されてしまったとされる
秀吉の父・竹阿弥は、光明寺の寺僧であったのかもしれない
寺伝では、福阿弥が後奈良天皇(在位:1526~1557)の眼病を治した時に拝領した官女(拝領妻)が産んだのが秀吉であり、拝領した時に彼女が妊娠していたのであれば、秀吉は天皇の子だという
光明寺で織田信長も徳川家康も手習いをしたのであれば、3人は幼馴染という事であるが、織田信長と人質時代の徳川家康が手習いをしたのは那古野(現・愛知県名古屋市中区)の万松寺(大須へ移転して「大須観音」)である
万松寺は1540年、織田信秀が織田氏菩提寺として那古野城の南側に建立しました
竹千代(徳川家康)は6歳で人質として今川義元から信秀に引き渡され、この寺で九歳まで過ごした
信秀の葬儀は万松寺で行われ、嫡男信長が歌舞伎な格好で臨んで仏前に抹香を投げつけた話は有名です











