をりをりに 伊吹を見てや 冬籠り・・・芭蕉(句碑は撮り忘れ)

八幡宮 秀吉再興 

長浜八幡宮一の鳥居

祇園祭、高山祭と並んで日本三大山車祭の一つに数えられる長浜曳山祭が行われる

源義家は、前九年の役の際に陸奥国の安倍貞任・宗任兄弟征討の祈願を弘仁5年(814)に空海によって創建されたという新放生寺にて行った

その後、安倍兄弟を討伐した義家は祈願の功があったとして、延久元年(1069)に後三条天皇から新放生寺に勝軍山の勅号を賜わる

同時に勅願を受けて、石清水八幡宮より祭神を分霊し、神仏習合により新放生寺の境内にその境内社として社が創建された

それが当宮の始まりであるという

元亀年間(1570 -1573)に行われた信長と浅井長政との戦いに巻き込まれてしまい、新放生寺と当宮はほとんど焼失して衰退した

天正2年(1574)に長浜城城主として羽柴秀吉が長浜に来ると、秀吉は新放生寺と当宮の荒廃を惜しみ、寺社領七十石が寄進され、堂舎、社殿の再建がおこなわれて、天正19年(1591)に新放生寺と当宮の社殿は再興された

この史実は長浜曳山祭の起源ともいわれている

秀吉が再興をはかり新放生寺の塔頭・妙覚院や学頭寺・舎那院をはじめ二十余坊が新放生寺と当宮の周囲に再建された

やがて七十坊となったが、慶長から寛永年間(1596 -1645)には三十余坊、天和年間(1681 -1684)には二十一坊と次第に衰えていった

明治時代になると神仏分離によって新放生寺とその塔頭は廃寺とされたが、学頭寺の舎那院のみは残され、新放生寺や塔頭の仏像や資料等が全て移された

また、当宮は名称を長浜八幡宮と改めている

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秀吉領となり長浜の町は転機を迎えた