太子の 仏舎利と髪 が納められ

推古天皇元年(593)に聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった

寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった)

以上が『書紀』の記載のあらましである

聖徳太子の草創を伝える寺は近畿地方一円に多数あるが、実際に太子が創建に関わったと考えられるのは四天王寺と法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当

『書紀』の推古元年是歳条には「是歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」とあって、「是歳」が造営の開始を意味するものか完成を意味するものか定かでなく、めでたい「元年」を造営の年にしたものとも考えられている

ただし、四天王寺が推古朝にはすでに存在したことは考古学的にも確認されている

前期難波宮の下層遺構から瓦が出土するが、この時代の日本において瓦葺きの建物は仏教寺院のみであり、これらの瓦は四天王寺の創建瓦と見なされている

したがって、孝徳天皇が前期難波宮に遷った7世紀半ば以前の推古朝にすでに四天王寺がこの地に存在したことが分かる

四天王寺の創建瓦の中には、斑鳩寺(法隆寺)のいわゆる若草伽藍(現存する法隆寺西院伽藍の建立以前に存在した創建法隆寺の伽藍)の出土瓦と同笵の軒丸瓦がある

若草伽藍と四天王寺の同笵瓦を比較すると、前者の文様がシャープであるのに対し、後者は瓦当笵に傷が見られる。このことから、若草伽藍の造営が先行し、同伽藍の造営が落ち着いたところで、瓦当笵が四天王寺造営の工房へ移動したことが分かる

四天王寺の伽藍配置は中門、塔、金堂、講堂を南から北へ一直線に配置する「四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西院伽藍(7世紀の焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である若草伽藍の伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる

太平洋戦争末期の昭和20年(1945)3月13日・14日に行われた第1回大阪大空襲で国宝の東大門や庚申堂の他、中心伽藍もろとも五重塔は焼失した

7代目五重塔はわずか5年と短命であった

現存の中心伽藍は昭和32年(1957)から再建にかかり昭和38年(1963)に完成したもので、五重塔は8代目で、鉄筋コンクリート造であるが、飛鳥建築の様式を再現したものである

仏舎利塔には聖徳太子の仏舎利6粒、頭髪6毛が収められています