四天王寺 創設由緒 物語り
和宗総本山「四天王寺」
山号は荒陵山(あらはかさん)
本尊は救世観音(ぐぜかんのん)
聖徳太子建立七大寺の一つで新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている
講堂
日本書紀によれば推古天皇元年(593)に造立が開始された
当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である
荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている
天台宗に属していた時期もあったが、元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった
日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、昭和21年(1946)に「和宗」の総本山として独立している
四天王寺は蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び、日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである
用明天皇2年(587)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争が発生した
蘇我軍は物部氏の本拠地であった河内国渋河へ攻め込んだが、敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した
聖徳太子こと厩戸皇子(当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした
その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった










