ゴトビキ岩 天ノ磐盾 御神体
神倉神社
鎌倉時代の建長3年(1251)2月14日には火災により焼失したが、執権の北条時頼より助成を与えられて再建された
中世の神倉神社は、神倉聖と称される社僧のほか、その下役の残位坊、妙心寺(妙心尼寺)・華厳院・宝積院・三学院の神倉本願四ヵ寺が運営にあたり(『紀伊続風土記』)、中の地蔵堂・参道・曼荼羅堂などの維持管理にあたった
南北朝時代の動乱による荒廃の後はもっぱら妙心尼寺が勧進権を掌握した
満山社は、結いの神・祓いの神・八百万の神が祀られています
享禄4年(1531)付の古記録「神倉再造由緒」によると、神倉山の神社仏閣は持統天皇の時代に裸行上人により建立されたが、その後荒廃したため、延徳元年(1489)に妙心尼寺の妙順尼が神倉神社の再興のための勧進を行い、
さらに大永年間(1521-1528)から享禄4年まで弟子の祐珍尼らとともに諸国を巡って奉加を募り、これによって再興を成し遂げた(『妙心寺文書』)
戦国時代から近世初期にかけても度々災害に見舞われているが、なかでも天正16年(1588)には、豊臣秀長の木材奉行によって放火され、境内がことごとく焼失した
翌年には祐心尼のほか、金蔵坊祐信(当山派)および熊野新宮の楽浄坊行満(本山派)の2人の修験者の協力を得て西国9か国に勧進に赴いている
若者は駈け飛び降りてくる
中地蔵堂
最大斜度45度
迂回道(女坂)があります











