頼朝が 寄進石段 538段
神倉神社は、速玉大社の摂社
新宮市中心市街地北西部にある千穂ケ峰の支ピーク、神倉山(かみくらさん、かんのくらやま、標高120メートル)に鎮座し、境内外縁は直ちに断崖絶壁になっている
山上へは、源頼朝が寄進したと伝えられる、急勾配の鎌倉積み石段538段を登らなければならない
山上にはゴトビキ岩(「琴引岩」とも。ゴトビキとはヒキガエルをあらわす新宮の方言)と呼ばれる巨岩が御神体として祀られている
この岩の根元を支える袈裟岩といわれる岩の周辺には経塚が発見されており、平安時代の経筒が多数発掘され、そのさらに下層からは銅鐸片や滑石製模造品が出土していることから、神倉神社の起源は磐座信仰から発したと考えられている
神倉神社の創建年代は128年頃といわれているが、神話時代にさかのぼる古くからの伝承がある
『古事記』『日本書記』によれば、神倉山は、神武天皇が東征の際に登った天磐盾(あまのいわたて)の山であるという
このとき、天照大神の子孫の高倉下命が神武に神剣を奉げ、これを得た神武は、天照大神の遣わした八咫烏の道案内で軍を進め、熊野・大和を制圧したとされている
しかし、「熊野権現御垂迹縁起」(『長寛勘文』所収)には神剣と神倉山を結びつける記述はないことから、天磐盾を神倉山と結びつける所説は鎌倉時代以降に現れたものと考えられている
熊野信仰が盛んになると、熊野権現が諸国遍歴の末に、熊野で最初に降臨した場所であると説かれるようになった(「熊野権現垂迹縁起」)
この説に従えば、熊野三所大神がどこよりも最初に降臨したのはこの地であり、そのことから熊野根本神蔵権現あるいは熊野速玉大社奥院と称された
平安時代以降には、神倉山を拠点として修行する修験者が集うようになり、熊野参詣記にもいく度かその名が登場する
『平家物語』巻10の平維盛熊野参詣の記事に登場するほか、応永34年(1427)には、足利義満の側室北野殿の参詣記に「神の蔵」参詣の記述が見られる











