魅力は 石垣にあり 丹鶴城

平安時代末期になると、熊野別当の娘が六条判官の源為義に嫁いだ

この地は鶴がよく舞い降りていたことを形容し田鶴原(たづはら)と呼ばれていたが、娘は田鶴原の女房といわれた

成人して後、19代行範に嫁ぎ、行範が死去すると丹鶴山に夫の菩提を弔う東仙寺を建立する

それ以降、熊野川河口右岸にある山を丹鶴山とよぶようになり、これが後の新宮城の別名「丹鶴城」の由来となった

また、先の熊野三山のうち、熊野速玉大社は、古来より熊野の本宮に対して「新宮」と呼ばれてきた。この地はそれに由来する

時はくだり、天正期になるとこの地方を統治した堀内新宮城(堀内屋敷)が現在の全龍寺にあったが、関ヶ原の戦いの時、後に大和国新庄藩初代藩主となる桑山一晴に西軍方の堀内氏善の城を攻められ降伏している

熊野大橋

慶長6年(1600)、徳川家康は紀伊に浅野幸長(あさのよしなが)を37万4千石で入封させ、新宮の桑山一晴を、大和新庄に移封、新宮は浅野幸長の重臣である浅野忠吉(あさのただよし)に2万8千石で守らせ、慶長7年(1602)、丹鶴山に新宮城を築いた

城門

この時、丹鶴山にあった東仙寺や香林寺を城下に移転させているその後、一旦、一国一城令により廃城になるが、御三家であること、南の守りであることから、元和4年(1618)に再築された

熊野川

完成間際の元和5年(1619)、浅野氏は備後三原城へと移り、替わって徳川家康の十男である徳川頼宣(よりのぶ)が紀州藩主として入封、付家老である水野重仲が新宮城主となった

本丸石垣

城の築造は続けられ続け寛永10年(1633)に近世城郭が完成した

この水野氏が代々城主を務め明治を迎えた

その後、新宮城は廃城令により建物が取り壊された

千穂ケ峰