独立へ 享保騒動 隠居す

中奥六畳間

公務を離れて私的な日常の生活の場であった

本居太平(宣長養子)の和歌

中奥を中心に、祝間、次、囲(茶室)が設けられている

枯山水の庭

名張藤堂家の家禄は藤堂藩32万3千石に含まれる

享保19年(1734)、5代当主長煕は藩祖・高吉の実家である丹羽家を通して幕府に独立を働きかけ、重臣たちも幕府との交渉のため江戸に向かった

しかし翌享保20年(1735)に本家の知るところとなり、一触即発の状態になった

最終的に、横田太右衛門・小沢宇右衛門・七条喜兵衛の3名が主君のあずかり知らぬところと主張し、責任を被って切腹した

長熙は隠居を命じられ、長美が跡を継いだ(享保騒動、名張騒動とも)

以降、本家から2名の横目付が派遣され、常時監視下に置かれるようになった。また、家臣の旅行や他家への使者派遣、あるいは他家からの使者を迎えるに当たっては、必ず本家の上野城代の許可が必要になった

文化15年(1818)4月には、名張藤堂家で慣習であった、当主を「殿様」と称することを藩から禁じられている。これらは藤堂長教が津藩本家から室を迎えて以降、徐々に改善するが、同時に遠祖である“丹羽家”色や独立気風も薄れていった。