宇流富志禰 名張歴史を 物語る
北畠家の養子となっていた織田信長の次男信雄は、天正4年(1576)に北畠具教ら北畠一族を三瀬の変で暗殺し伊勢国を掌握すると、次は伊賀国の領国化を狙っていた
1578年(天正6年)2月、伊賀国の郷士の日奈知城主・下山平兵衛(下山甲斐守)が信雄を訪れ、伊賀国への手引きを申し出た
信雄は同年3月に滝川雄利に北畠具教が隠居城として築城中であった丸山城の修築を命じた
これを知った伊賀国郷士衆は驚き、丸山城の西にある天童山に密偵を送り、築城の様子をうかがった
丸山城は3層の天守や天守台は石垣で固められ、また二の丸への登城道は9回折れているなど、規模壮大な城であったと記されている
伊賀郷士11名が平楽寺に集まり、「完成までに攻撃すべし」と集議一決した
一説には、伊賀衆有力者12人の協力を得ていたが、出陣が続く中で織田側が戦費不足から築城を中断、人夫代が入らなくなったことで伊賀衆の不満が高まり、北畠残党等の反織田派の策動もあったともいう
丸山城周辺の神戸、上林、比土、才良、郡村、沖、市部、猪田、依那具、四十九、比自岐衆が無量寿福寺で密談をこらし、同年10月25日に集結した700人ともいう伊賀衆が総攻撃を開始した不
意を突かれた滝川軍や人夫衆は混乱し、昼過ぎには残存兵力を糾合し伊勢国に敗走した
『伊乱記』には、「伊賀衆は雄利を討ち取ったと喜んだ
しかし雄利が無事であることを知って落胆した」とある
10月28日、信雄は伊勢田丸城で軍議を開き、反撃の機を待つことを決めた
翌天正7年(1579)、信雄は信長に相談もせず独断で阿波口から8,000、布引口から1500、伊勢地口から1300の兵を率いて伊賀国に3方から侵攻したが、伊賀郷士衆は各地で抗戦し信雄軍を伊勢国に敗走させた











