伊賀の乱 惣国一揆で 灰燼す
主祭神の宇奈根命(うなねのみこと)の由来については、「(名張)川がうねる⇒うなね」とされる
御神体:神社西側の名張川岸にある「弁天岩」
天正8年(1580)、天正伊賀の乱で社殿・宝物・古文書など全てを焼失する
創祀は、不詳。『春日社記』には、神護景雲元年(767)武甕槌神が鹿島神宮より春日大社への遷祀の際、当地に留まったのが起源とされている
崇神天皇のとき、「倭姫世紀・神宮後鎮座記」に「二年奉斎」とあり当社に倭姫の巡行があり元伊勢であったことが記されている
「三代実録」に貞観15年(873)宇奈根神、従五位上。その後、徐々に位を上げ永徳元年(1387)従一位
興玉松尾神社:明治41年の合祀の際に、酒造業の方々が京都の松尾神社から分霊を勧請し、興玉松尾神社と改称されております
天正伊賀の乱:伊賀国で起こった信長と伊賀惣国一揆との戦いの総称
天正6年(1578)から天正7年(1579)の戦を第一次、天正9年(1581)の戦を第二次とし区別する。織田信長の死後、第三次も起きている
伊賀は四方を山で囲まれ、中に上野盆地がある閉鎖的な土地で、伊勢神宮・奈良東大寺・興福寺の荘園支配が続いた
室町期に至っても強固な守護支配が及ばず、戦国期には48とも66ともいわれる小領主の土豪が国人として分かれ、砦・土塁・舘を築いていた
小競り合いをしながらも均衡を維持、外部勢力の侵攻に対しては「惣国一揆掟」を結んで一致団結して対抗していた。伊賀には600以上の城館跡があったとも伝えられる
倭姫命が御杖代で大和〜伊賀〜淡海〜美濃〜尾張〜伊勢國と御巡幸された時、伊賀國名張郡のこの神社に2年間奉斎されていた











