参詣者 に配慮して(冬は里宮に)遷宮 

刈田嶺神社奥宮

天之水分神・国之水分神(あまのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)を祀る

御釜や仙台方面を一望できる

山麓の刈田嶺神社里宮と対になっており、ご神体が夏季は「奥宮」、冬季は「里宮」にと、両宮の間を季節遷座します

役行者の叔父 願行(がんぎょう)が勧請したものと伝えられる

蔵王大権現社は往古より蔵王一帯の修験者を統括し、大刈田山(青麻山)東麓の「願行寺」が管理した

平安時代末期(12世紀末)には奥州藤原氏の庇護も受け、願行寺は繁栄し、子院四十八坊を形成するまでになった

奥州藤原氏が滅亡とともに衰退し、戦国時代には兵火による焼失も加わって、戦国時代末期には山之坊・宮本坊・嶽之坊の3坊にまで減少した

後に、山之坊は廃れ、宮本坊は宮蓮蔵寺となり、嶽之坊は金峯山蔵王寺嶽之坊と号し、蔵王山参詣表口を統括した

御山詣りが流行した江戸後期以降は、多くの参詣者を山頂の蔵王大権現へと導く役を担った

雪深い蔵王山は冬の参詣ができないため、例年、10月8日から翌4月8日までは御神体を遠刈田の「蔵王大権現御旅宮」(おかりのみや)に遷すようになった

この御旅宮は嶽之坊と同一の場所にあるなど、古くから嶽之坊と蔵王大権現社とは、同体ともいえるほど深くつながっていた

伊達宗高(政宗7男)公命願之跡

刈田岳で宗高が行った祈祷は、自らの命と引き換えに噴火を鎮めることを願った「命願」であったと信じられるようになり、村田を始めとする柴田・刈田の宗高旧領の住民たちは、今日に至るまで折に触れてその仁慈を讃えている