八百万 本地垂迹 仏化身

飛鳥・奈良時代は仏教の最も盛んなる時にして、畏くも天皇御自身三宝の奴と称し、行基出でて神仏習合説を唱い、空海(774~835年)、最澄(767~822年)の二僧出ずるに及び、本地垂跡説を説きし頃(平安時代はじめ頃)なりしかば、いつしか神社名も忘れ、「蔵王大権現」と称するに至った

平安時代後期の前九年の役の頃になると、安部氏が当社を己が氏神として神殿の改築したという

戦国時代に至り、当地方は出羽領に属し、最上出羽守厚く尊崇し五十町歩を寄進して、当社の神田とした(後段『刈田郡誌』)

上杉氏は家臣甘糟氏(甘糟備後守清長 1598-1600年白石城主)に守護させた

その後伊達氏代りて陸奥に覇を握るや、己が守護神として家臣片倉小十郎(白石城主1602年12月~)に守護させ、伊勢神宮に倣って21年毎の改築(遷宮)を始めた

伊達政宗が仙台藩をたてると、仙台城の鬼門(北東)除けを金華山(黄金山神社)、病門(南西)除けを当社と見なして重要視するようになる

明治維新で神仏分離が行われると、明治5年(1872)に「水分神社」と改称し、さらに明治8年(1875)に「刈田嶺神社」を称するようになった

鳥居前で梨を買い求め山でかじった

宮郵便局前広場

蔵王エコーライン車窓

エコーラインは宮城県蔵王町と山形県上山市を結ぶ山岳観光道路

オオシラビソ(アオモリトドマツ)