継母に 中将姫 虐げられ
雲雀山「得生寺」
別名を中将姫寺ともいう
右大臣藤原豊成の娘である中将姫が父の後妻によってこの雲雀山の地(諸説あり)に捨てられ、家来である伊藤春時に殺されかけてしまう
しかし、春時は姫を害することが出来ずに逆に姫を匿い、そして出家して得生を名乗ってこの地に草庵を設けた
草庵は後に安養庵と称された
明秀光雲上人が入って中興し、安養庵の号を改めて伊藤春時の僧名・得生を新たな寺号とし、雲雀山得生寺と改名
中将姫の命日である5月14日には「中将姫会式」が開催され、糸我得生寺の来迎会式(二十五菩薩練供養)が行われる
糸我得生寺の来迎会式は昭和43年(1968)に和歌山県指定無形文化財に指定されている
天平19年(747年)に右大臣藤原豊成の娘として、生まれた姫が13才のとき継母のため奈良の都から糸我の雲雀山に捨てられ、3年の間に称賛浄土経一千巻を書写したと伝えられています
また、姫の従臣伊藤春時(剃髪して得生という)が姫を養育した所に草庵を結び、安養院と号したのが始めといわれます
藤原鎌足の曾孫(ひまご)・藤原豊成(とよなり)と紫の前(むらさきのまえ、百能、當麻氏の出)の間に誕生
天平の華を開かせた聖武天皇の妃・光明皇后と共に藤原一族を代表する二大女性の一人です
771年(宝亀2年)3月14日中将姫29歳の時、生身の阿弥陀如来と二十五菩薩が現れ、中将法如尼を生きながら西方浄土へ迎えました










