内膳丸 権力闘争 舞台となり
内膳丸虎口
主郭から北側に下った丸山に所在する
古くは山の名に由来する「丸山砦」とする呼称も見えるが、慶長年間に米子城と併せて横田村詮が改修を行ったことを由縁に「内膳丸」の呼称
水軍基地とした防御が意図されており、横田村詮が改修を行う以前より重要な城砦の所在が推測されることから丸山に所在した城砦が米子城の前身、伯耆国飯山城
と仮定する根拠のひとつとする
武器庫(武具、火薬など)と見張櫓が配置されていた
南方向には天守北側直下の遠見張へと登り石垣で接続され、東側には山下通路によって二ノ丸との連携が図られている
絵図では登り石垣は遠見櫓まで繋がらず意図的に切られた作図が成されていることから門跡、或いは誘引のための袋小路が設けられていた可能性がある
天守台
1603年(慶長8年)、横田村詮の暗殺を発端にした中村騒動(横田騒動)が勃発
横田氏の政敵で暗殺の黒幕とも囁かれる野一色氏への報復として騒動の最中に破壊されたとも
伯耆民談記では横田勢が立て籠もったのは二ノ丸の居宅とされ、中村方の部隊は内膳居宅の表口から、堀尾方の部隊は裏口となる台所口を取り囲み鉄砲を打ち出したとしている
「徳川実紀」及び「藩翰譜」では中村騒動で横田方は飯山に籠もったと記述が見える
中村騒動では横田方が飯山城(采女丸)に立て籠もったとしているが、一説に野一色采女は横田村詮の政敵と囁かれ、騒動の発端となった暗殺事件の黒幕ともされている











