身分なし 神の元では 平等
入口の階段は出雲大社と同様に正面に向かって右にあるが、殿内の中心に建つ心御柱(しんのみはしら)と脇の板壁および神座の位置と向きは、出雲大社とは反対になっている
大社造には男造(おづくり)・女造(めづくり)と呼ばれる二つの内部構造があり、出雲大社は男造、神魂神社は女造となる
神火相続式(おひちぎしき)は、「火継式」ともよばれ、出雲国造が、世襲し代替わりするときの、聖職者継承の方法を伝える特殊神事である
神人融合・合一の儀礼で、聖火で調理した御飯と一夜酒を神々に奉献してから食すことで、神々の霊威や生命力を頂き、神職としての権威が充足される
神火相続式の現存する最古の記録が、天正12年(1357年)に残る
出雲国造家では、現・国造が逝去すると、亡き父である国造の葬儀をすることなく、嗣子は直ちに神魂神社に参詣し、一昼夜のうちに神火相続の儀式を行うが、新・国造と神魂神社の秋上神主2名のみで本殿の内殿に参籠し行われる
神事が無事終了すると、直ちに神火相続成就の飛脚をたて、出雲大社へ報告し、その後、国造の葬儀を執り行ったとされる
慶長9年(1604年)、松江藩の藩主となった堀尾忠氏は、城地選定のため、島根郡や意宇郡の調査をしていた7月下旬、意宇郡の大庭大宮(神魂神社)に参拝したが、この時に神主を呼び出して「当社には小成池があると聞いた。見物したい」と伝えたが、神主は禁足地であるとして断った
しかし忠氏は国主として見なければならないと主張し、神主は案内人を連れて忠氏を池の近くまで行き、そこからは忠氏が1人で行った
そして帰って来た時に忠氏は顔色が紫色になっており、富田城に帰ってから自らの行為に後悔し、程なく病床について、8月4日に吉晴に先立って病死した
一説にはマムシにかまれたためともいう
歴史を感じさせる石段
裏参道?
スピリチュアルな体験が出来ました
ダンノダイラの古代人はいつ頃出雲地方から大和に移り住んだのだろうか?









