神魂社は 出雲国造り に奉仕した
本殿は現存する日本最古の大社造りで国宝
地元では「神魂さん」、「大庭の大宮さん」と呼ばれ、大庭大宮、神納神社の別名もある
神魂神社のある大庭(おおば)は、出雲の国分寺、国府に近く古代出雲の政治、交通、経済の中心地であり、天穂日命の子孫の出雲国造が住んだと伝わり、出雲国造は出雲大社の宮司家となるが、出雲国造として25代まで当社に奉仕していた
延暦17年(798)以降、郡司兼務を禁じられ、大庭に別邸を残したまま、現・出雲大社のある杵築(きつき)に居を移すが、
出雲国造家の代替わりのときに行われる「神火相続式(おひちぎしき)」、「古伝新嘗祭」の祭祀は、明治初年まで当社に参向して行われており、また大庭の別邸も明治初年まで神魂神社の社頭近くに存在していた
出雲大社近傍にある意宇六社は、出雲国造家の緩い支配下にあったとされ、幕末まで神職の免許、社殿の造営、遷宮には、出雲国造家が関わっていたとされる
享保20年(1735)の『神魂社規式』に、神社の神主は出雲国造の名代として奉仕する者と記されている
また出雲国造家が、明和9年ごろ京都の柳原家へ宛てた書状『出雲両国造家代書状』などによると、神魂神社は出雲大社の摂社であり、神主や別火などの神職は、出雲国造の下司とされ、神魂神社は独立した神社と見なされていなかったことが窺える
経済的基盤として、鎌倉初期には、出雲国造家は神社の北西付近を神魂神社神領として所有し、職を兼ねていた
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幕末まで社領は安堵され、出雲国内で天正13年(1585)には、吉川元春などから86石ほどの祭田が与えられ、
慶長6年(1601)には、新・国主の堀尾氏から、71石4斗の社領が寄進を受け、寛永15年(1638)にも新・国主の松平直政からも寄進をうけ、計221石4斗の社領を所有する
出雲大社の2730石、日御碕神社の1280石に継ぐ石高となっている








