不撓不屈 6度目の渡航 来日す
日本における律宗の開祖
俗称は淳于
中国の揚州生まれ、14歳で智満について得度し、大雲寺に住む
18歳で道岸から菩薩戒を受け、20歳で長安に入る
翌年、弘景について登壇受具し、律宗・天台宗を学ぶ
蓮池
律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている
揚州の大明寺の住職であった742年、日本から唐に渡った僧・栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるよう懇請された
当時、奈良には私度僧(自分で出家を宣言した僧侶)が多かったため、伝戒師(僧侶に位を与える人)制度を普及させようと聖武天皇は適当な僧侶を捜していた
仏教では、新たに僧尼となる者は、戒律を遵守することを誓う
戒律のうち自分で自分に誓うものを「戒」といい、サンガ内での集団の規則を「律」という
戒を誓うために、10人以上の僧尼の前で儀式(これが授戒である)を行う宗派もある
日本では仏教が伝来した当初は自分で自分に授戒する自誓授戒が盛んであった
しかし、奈良時代に入ると自誓授戒を蔑ろにする者たちが徐々に幅を利かせたため、10人以上の僧尼の前で儀式を行う方式の授戒の制度化を主張する声が強まった
栄叡と普照は、授戒できる僧10人を招請するため唐に渡り、戒律の僧として高名だった鑑真のもとを訪れた
栄叡と普照の要請を受けた鑑真は、渡日したい者はいないかと弟子に問いかけたが、危険を冒してまで渡日を希望する者はいなかった
そこで鑑真自ら渡日することを決意し、それを聞いた弟子21人も随行することとなった。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたが、悉く失敗した
最初の渡海企図は743年夏のことで、このときは、渡海を嫌った弟子の如海が、港の役人へ「日本僧は実は海賊だ」と偽の密告をしたため、日本僧は追放された
鑑真は留め置かれた。 2回目の試みは744年1月、周到な準備の上で出航したが激しい暴風に遭い、一旦、明州の余姚へ戻らざるを得なくなってしまった
再度、出航を企てたが、鑑真の渡日を惜しむ者の密告により栄叡が逮捕され、3回目も失敗に終わった。その後、栄叡は病死を装って出獄に成功し、江蘇・浙江からの出航は困難だとして、鑑真一行は福州から出発する計画を立て、福州へ向かった。しかし、この時も鑑真弟子の霊佑が鑑真の安否を気遣って渡航阻止を役人へ訴えた。そのため、官吏に出航を差し止めされ、4回目も失敗した
748年、栄叡が再び大明寺の鑑真を訪れた。懇願すると、鑑真は5回目の渡日を決意する。6月に出航し、舟山諸島で数ヶ月風待ちした後、11月に日本へ向かい出航したが、激しい暴風に遭い、14日間の漂流の末、遥か南方の海南島へ漂着した。鑑真は当地の大雲寺に1年滞留し、海南島に数々の医薬の知識を伝えた。そのため、現代でも鑑真を顕彰する遺跡が残されている
751年、鑑真は揚州に戻るため海南島を離れた。その途上、端州の地で栄叡が死去する。
動揺した鑑真は広州から天竺へ向かおうとしたが、周囲に慰留された。この揚州までの帰上の間、鑑真は南方の気候や激しい疲労などにより、両眼を失明してしまう。753年、鑑真のもとを訪ねてきた遣唐大使の藤原清河らに渡日を約束した。しかし、明州当局の知るところとなり、清河は鑑真の同乗を拒否した。それを聞いた遣唐副使の大伴古麻呂は清河に内密に第二船に鑑真を乗船させた
沖縄に到着した三船は約半月間滞在し、南風(はえ・ぱいかじ)を得て、三船共に沖縄を発して多禰嶋を目指して出港する。出港直後に大使・藤原清河と阿部仲麻呂の乗った第一船は岩に乗り上げ座礁、第二・三船はそのまま日本を目指した
第一船はベトナム北部に漂着し、後に唐に戻る。第二・三船は共に翌日に益救嶋(屋久島)に到着して鑑真の渡日が叶った
朝廷や大宰府の受け入れ態勢を屋久島で待つこと11日、12月18日に屋久島から大宰府を目指し出港する
翌19日に遭難するも大伴古麻呂と鑑真の乗った第二船は20日に薩摩国の秋目(秋妻屋浦/鹿児島県南さつま市坊津町秋目)に漂着し、その後12月26日に大安寺の延慶に迎えられながら大宰府に到着した













