大友氏 福原・竹中 府内城

城は町の東北の海の方にあり 頗る大なり 

天守あり 城の入口三所あり 町も頗るひろし 万の売り物備れり・・・貝原益軒「豊国紀行」

府内藩主の居館および武家屋敷により構成された、近世城郭の特徴を色濃く残す城です。大分川と住吉川に挟まれ、かつて海辺に面した府内城は、白土の塀と、まるで水上に浮かぶその姿から、「白雉(はくち)城」とも呼ばれています

府内城は、大友氏が国を去った後、豊後を治めていた早川氏に続き、府内に入った福原直高により、築城が行われ、その後竹中重利により、現在の府内城の形が出来ました

府内城下町も同じ時期に形成され、今の大分市街地のおおよその形は、この頃に作られました

城郭としての特徴は、北方を海に、東方に大分川河口が面した、高低差が殆ど無い平城

大きく三つの郭と三重の堀からなっていました

明治末頃、三の丸外側と二の丸内側の堀は埋め立てられ、現在では、二の丸と三の丸を区切る堀が残っています

かつては、四層の天守を持ち、23の櫓と5つの門、3箇所の廊下橋が築かれていましたが、戦災などにより失われてしましました

現存する「宗門櫓(しゅうもんやぐら)」と「人質櫓(ひとじちやぐら)」は、県指定文化財となっており、江戸時代の意匠を今に伝える貴重な文化財といえます

慶長二年(1597)に福原直高は豊臣秀吉の命により、「要害」としての城を築くため、府内を見て廻り、「荷落(におろし)」と呼ばれていた河畔を築城地に定め、城造りに懸かります

直高は、国元にいるときは築城工事を監督し、木材を領内の大分郡だけでなく、土佐国にまで求めたり、また他国の商船に領内(高崎など)の石材を運ばせていました

朝鮮出兵などで、築城の中断がありましたが、約二年の歳月を経て、慶長四年(1599)に本丸に続き、二の丸と三の丸が完成しました。直高は「荷落」の地名を嫌い、「荷揚(にあげ)城」と名づけました

慶長七年(1602)から、竹中重利は、家康の許可を得て、四層の天守と諸櫓・門・武家屋敷・北西砦(山里丸)を造りました

その際、石垣の築造に、加藤清正の石工を、大阪や伏見から大工や瓦師を招くなど、当時の城造りの先端技術を導入しました

城下町は、南北九町、東西十町の碁盤の目状に区画され、町の北西側には京泊と呼ばれる船着場が造られ、水上交通や物資の輸送を担っていたと思われます