済州島 悲惨な歴史 4.3事件
昭和44年には在日本朝鮮仏教徒協会の傘下に入り、「統国寺」と命名されて再興された
爾来脈々と法統を重ね、初代金星海、二代張泰成、三代徐泰植、当代崔無碍と継承されている
現在は朝鮮・韓国の仏教儀礼と伝統儀式を挙行しつつ、元曉大師の和合の精神の下、朝鮮・韓国・日本の差異を超えて仏教儀式・布教を幅広く行っている
また納骨堂に朝鮮人殉難者達の無縁仏、本堂に平和大念珠が奉安されており、諸精霊の供養を通して世界とアジアの平和を日々祈念している
済州四・三は1948年4月3日の済州島での武装蜂起に端を発し、その武力鎮圧の過程でおよそ3万人の島民が犠牲となった
1949年の半ばまでには中山間の村がほぼ焼失し、武装隊とその関係者はもとより、これとは関わりのない夥しい数の島民たちが虐殺された
1950年の朝鮮戦争の勃発と同時に、一旦は収束するかにみえた殺戮が再燃し、大邱や木浦など島外の刑務所に収監されていた人々や、要視察者として警察の監視を受け開戦後に「予備検束」された島民の大半が集団虐殺された
朝鮮戦争休戦後1954年の漢拏山の禁足令の解除を経て、武装隊の最後の1人が逮捕されたのは1957年である
その間、島の人口28万人の内3万人が犠牲となり、その8割以上は軍や警察の討伐隊によるものだ
「ベルリンの壁」
平和統一を願うシンボルとして設置されたのだろうか








