霊場 岩屋桝形 修行地

岩屋桝形(下の磐)

この二つの大岩は、もともと一つの岩だったのですが、いつのころか地面が大ゆれの時、真っ二つに裂けて一つが落ち、下のつっかい石の上に横たわったものだと言われています

岩屋は神仏が溶けあった神道霊場として岩屋寺と呼ばれ、頭上の大日如来を本尊として、ほら穴の中に不動明王を、境内入り口に善女龍王を祀る修業の聖地となりました

戦を捨てた武士や、身内の不幸をなげく人々、あるいは山伏たちが救いを求めてこの山へ登って来ました

山の冷気と静けさの中で、ひたすら読経に溶け入ったのです

岩屋寺から枡型岩へ登る参道には、中興の祖と呼ばれる空仙広祐が造った地蔵石仏(享保4年(1719)などがあります

空仙さんは人々の幸せを祈るため、自分から墓穴に入り21日間鐘を鳴らして成仏したと伝えられており、その墓の上には弥勒菩薩が祀られ、地元ではそれをクスセンと呼んでいます

天正のころ(1573~)、岩屋寺で修業に励む若い僧の姿がありました

名は宥海、伊賀の国、滝村の豪族、滝三河守保義の弟で、早くから仏門に入り、岩屋寺宥専和尚を慕ってここに来たのです

天正7年9月、北畠信雄(織田信長の二男)は伊賀を攻め、滝村の七仏薬師院を焼きはらいました

三河守保義は懸命に迎え撃ちましたが、負けて戦死しました

岩屋寺にあった宥海は兄の戦死を知り、故郷に帰って防備を固めました

天正9年(1581)織田信長は再び伊賀を攻め、45000の軍勢が社寺を焼きはらい、伊賀の土豪はみな討ち死にしました

宥海は仏の加護で生き残り、牛ヶ峰に帰りましたが、師の宥専和尚はすでに他界して、師弟の再開はなりませんでした

山添村「岩屋・桝形ものがたり」より・・・続く