能登半島 辺境の地として 取り残され 

能登半島は、日本海の中央部に向かって100km突出した半島で、「陸の孤島」の蔑みに 甘んじてきた歴史は長かった

行政的にも古代のある時は越前国の一部であったり、越中国に併合されたりという時代を経て、正確に立国したのは天平勝宝9年(757)であった 

能登を論ずる時は、能登半島を地域的に3つに分けて、県都金沢市に近い方から、 「口能登 」、「中能登」、「奥能登」とするのが一般的であり、

更に、通俗的にはこの半島の首の部分である中能登を中心として先端部へ進むと、東北東から西南西にかけて鳳至丘陵 が走っており、その丘陵を挟んで北西海岸を「外浦」、南東海岸を「内浦」と呼んでおり、

同じ半島にありながら異質の風土を醸しながら、奥能登は旧鳳至郡と旧珠洲郡が位置を占 めて最果ての色濃い地域を作りだしている

金沢市から鉄路七尾線で奥能登の玄 関口の穴水町に達するようになったのは昭和7年、

そこから半島を横断して輪島市へ延長 されたのは昭和10 年、穴水町から東へと内浦海岸に沿って能登半島の東北端の旧飯田町 (現珠洲市)まで延長されたのは実に昭和39 年であった全

国的にも珍しく鉄道の 無い市が存在した時期があった

しかし、平成 13 年には穴水・輪島間の鉄道が廃線とな ったので、今度は輪島市が鉄道の無い市となり果てている

大同3年(808)には、穴水・三井みい ・大市 (輪島の旧名)など6つの宿駅は「以不要也」 という理由だけで廃止されたことが、日本書紀に見えることから考えて、

 

 

昔から能登は盲腸扱いされ、時には流刑の地にされてきた歴史は長く、常に他の地域の後塵を拝する地位に甘んじなければならなかった

日本の文化がこの奥能 登まで波及するには大きな時差があったのである

その反面、一度奥能登へ入り込んだ文 化はそのままに停滞し、沈澱し、風化して意外な時と所に露呈することがあり、これが半 島の持つ最大の特徴であると論じられてもきたのである

※輪島港の「みなと文化」 中村 裕著参考