日和山 四方が崩れ 灯台立つ

日和山「竜ケ崎」

大同3年(808)には、穴水・三井みい ・大市おおいち (輪島の旧名)など6つの宿駅は「以不要也」 という理由だけで廃止されたことが、日本書紀に見えることから考えて、昔から能登は盲 腸扱いされ、時には流刑の地にされてきた

能登の歴史は海との係わりで論じられることが多かった

古世代の日本海文化 の華やかさ、出雲地方や越前方面、また、対岸の 渤海ぼっかい 国への交流の痕跡が残る

天平18年(746)、大伴家持は越中守として伏木(富山県)に赴任した

その 2 年後 の天平20年(748)に、その当時越中国であった能登を一巡したことがあり、その時に詠 まれた歌が万葉集に5首載せられている

“とぶさ立て 船木伐るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾世神びそ” と言う旋頭歌もその一首である

古代の能登は造船王国であったと言われ、「船木伐るといふ」の部分がそれを端的に表している

この歌から察するに、古代の能登は美林の繁る国であり、数多の軍船が列をなして東北征伐に出港して行ったであろうその光景を彷彿させるものがあり、この事蹟が能登国の海運の先駆であったと思われる

 能登を海との係わりから眺めてみた場合、先ずは対馬暖流によってもたらされる海の幸 を挙げるのが一般的である

“あいの風”(北東風)や“下りの風”(南西風)の季節風など は能登の民衆にとっては「常世の国」の幸を運ぶ神風として捕らえられていたに違いない だろう

また、平安時代に成立した延喜に見られる古代の租税の公式ルートは、越中の 亘理津 (伏木付近)~能登加島津(七尾付近)~加賀比楽湊(美川)~越前敦賀港~琵琶湖~大津~京都へと運ばれたので、その間の中継地として、鳳至郡の郡衙があったと考え られる

大屋荘の港(後の輪島港)もすでに開かれていたであろう

輪島港の「みなと文化」 中村 裕著参考