又兵衛 歴史の真相 何処に

後藤又兵衛(基次):徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった

歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられ、大野治長・治房を補佐した

冬の陣では6,000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した

翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した

徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた

次善の策として、中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された

しかし、後続の真田信繁(幸村)らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣・片倉重長率いる鉄砲隊など、

10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死したとされている(享年56)

定説では大坂夏の陣で討死したことになっているが、講談や軍記が日本各地に広まって読まれ、幾多の戦役を生き延びたという伝説が各地に残っている

隠遁生活の後、ここ本郷の地で一生を終えたという伝説が残る

基次の屋敷跡と伝えられる場所には又兵衛桜(本郷の瀧桜)と呼ばれるシダレザクラの大木が残っている

大分県中津市の耶馬渓には、西国に逃れたと伝わる後藤又兵衛の墓が残っている