大納言 時忠子孫 時国家

能登平家物語

大納言・平時忠能登入りから今年で840年

清盛なきあと一門の総帥・宗盛を支えたのが時忠で平関白と呼ばれ畏れられた

山耀会・則定氏のご先祖は大納言に付き添い大谷へ下った

三種の神器を守護した功績は自分にあると主張し、娘(蕨姫)を義経に嫁がせたが能登大谷へ配流となった

配流地は珠洲市大谷町則貞

地形が京都の大谷に似ていることから「大谷」と名付けた

京へ戻る日を夢見ていたが、1189年2月24日当地で62歳の生涯を終えた

2ケ月後の4月流刑となった人々すべてが都に召し返された

17回忌の1206年、追善供養のため納めた大般若波羅蜜多経が町野町「八幡寺」に残されている

義経は平泉へ向かう途中、義父と蕨姫が待ち受ける大谷立ち寄ったとされる

時忠の能登入りとほぼ同時期に大屋荘地頭として長谷部信連が入府し時忠の動向を監視した

時忠の子孫・時国は名を姓に変えて山を下り、町野の牛尾地区に隠れ住んだ

鎌倉幕府の捜査の手が緩むと牛尾を去って町野川下流域へ進出、晦日村と太刀村を手に入れ、雇人を増やして荒れ地を耕作し両村合わせて300石を支配し時国家繁栄の礎を築いた

藤平朝雄氏「追跡紀行」参照