高倉山 築きし高城 東征軍
高倉山顕彰碑「神武天皇御東征・菟田高城」
即位前は、「神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)」(『古事記』)、「神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)」(『日本書紀』)とあります
日向(現在の宮崎県)から大和に攻め込む際、瀬戸内海を通過し、大阪の難波津へ軍船を進めました。難波津へ軍船を進めた神武天皇らは、生駒山を越えて大和に攻め込みましたが、長髄彦の反撃を受けました
形勢が不利とみた神武天皇は、原因を自分達が太陽のある東へ向いて攻撃しているためと考え、一旦、退却することとなりました
退却した神武天皇らは、南下し、紀伊半島を迂回して、熊野に上陸するという作戦に変更しました
この後、神武天皇らは、天照大神(『古事記』では高木大神)によって派遣された八咫烏の導きによって、道に迷うことなく、吉野を経て宇陀へと至ります
吉野川の河尻(五條市)に達した後、阿陀(五條市)、吉野、国栖(くず、吉野町)を経て、小(おむら、東吉野村)から鷲家川をさかのぼり佐倉峠を越え、宇陀へと入りました
『古事記』では、「踏み穿ち越えて、宇陀に幸でましき」、『日本書紀』では、「遂に菟田下県に達る。因りて其の至りましし処を号けて、菟田の穿邑と曰う。」とあり、まず、菟田下県(うだのしもつあがた)の穿邑(うかちむら)というところに着いたことがわかります
太陽を背にして、東から西へ、宇陀から奈良盆地へと攻め込み、戦いに勝利したのです
その後、橿原宮で即位し、ようやく「神武天皇」となりました
足湯で疲れた足を解しました









