人々の 心おく田が 討死は 義理かた山に のこる石塔
玉手山1号墳
二上山、神山
今から1700年ほど前に玉手山丘陵上に築かれた、前方後円墳と円墳による古墳群です
北から順に1号墳、2号墳…10号墳となっています
その範囲は南にある羽曳野市・駒ヶ谷周辺の古墳まで含めるのが一般的ですが、地理的な隔たりや、古墳の規模、埋葬施設の構造などから、ここでは10号墳までを玉手山古墳群の範囲と考えます
玉手山古墳群はその規模や数から考えて、古墳時代前期の古墳群として奈良盆地東南部に次ぐ古墳群と位置づけられます
南都奉行奥田三郎右衛門忠次戦死の墓地
1号墳から10号墳まで各古墳は接するように築かれていますが、駒ヶ谷宮山古墳は10号墳から南へ1km離れて、ほぼ同時期に築かれています
その後駒ヶ谷宮山古墳から北へ、駒ヶ谷狐塚古墳、駒ヶ谷北古墳などが順に築かれていったようです
大坂夏の陣で破壊されたのは、大坂だけでない。堺は豊臣方によって焼かれた
玉手村の村人は山奥へ避難したが、村は豊臣方に放火されたとの記録が残る
柏原の人々にとって、徳川家の時代とは戦災復興の過程でもあった
玉手山には、討死した徳川方の奥田忠次らをしのぶ石塔がある(冒頭の句)
これは、夏の陣の翌年(1616)に子の八郎右衛門によって建立された
その後、破損したが、嘉永二年(1849)に大坂に在勤する幕府役人が修理し、忠次らを称えた和歌を刻んだ石碑を設置した
大坂の陣は幕府にとって栄光の記憶であった











