世界一 仁徳天皇 聖帝

仁徳天皇陵模型

1700年程前の3世紀から7世紀の約400年間、大王や王(豪族)が亡くなると、土と石を使って高く盛った大きな墓・古墳を造りました

全国に16万基以上はあるといわれる古墳のなかで、日本最大の古墳が堺市にある仁徳天皇陵古墳です 

墳丘の大きさ486メートルと、エジプト・ギザのクフ王のピラミッドや中国の秦の始皇帝陵よりも大きく、世界三大墳墓の一つに数えられる世界に誇る文化遺産です 

古墳の陵域は濠を含めて約47万平方メートルと、甲子園球場が12個も入る広さです。古墳を造るには、1日最大2,000人の人々が働いても15年以上かかったといわれています 

古墳を上空から見ると、丸と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、墳丘の周りには水を湛えた濠が三重に巡り、大仙の名にふさわしい神秘的な悠久の仙山として、地元では大仙陵と呼んで親しんできました 

仁徳天皇陵古墳は、東アジア世界に進出した「倭の五王」の中の一人を葬った墓といわれ、

古代史を解明する上で重要な文化遺産です現在は、北の反正天皇陵古墳と南の履中天皇陵古墳とともに、百舌鳥耳原三陵として宮内庁が管理しているため中に入ることはできません

それでも濠の外からその巨大さは十分に実感して頂くことができます

祖母にあたる神功皇后が第15代天皇に即位したとして第17代天皇となっている場合があります。)、諱(いみな〈本名〉)は大雀・大鷦鷯(おおさざき)で、仁徳は8世紀頃につけられた諡(おくりな〈死後に送る称号〉)です

父は応神天皇(おうじんてんのう)、母は仲姫命(なかつひめのみこと)で、異母弟の皇太子・莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子を助け、異母兄の大山守(おおやまもり)皇子を退け、皇太子と皇位を譲りあいますが、皇太子の自殺に伴い即位します

都を難波高津宮(なにわのたかつのみや)に定めて、葛城磐之媛(かずらきのいわのひめ)を皇后とし、のちの履中・反正・允恭天皇をもうけます

民家から炊事の煙がたちのぼらないのを見て、人々が困っているのを察し課役を三年間免除したり、難波の堀江・感玖(こむく)大溝・茨田(まんだ)堤・横見堤などの築造や茨田屯倉(まんだのみやけ)の設置などを行ったと記されています

このような善政を行ったので、古来より聖帝(ひじりのみかど)とたたえられている