難波宮 古代倭の 謎を解く
歴史の散歩道の下には昭和48年の調査で、難波宮の建物・廻廊・築地跡が見つかりました
難波宮以前の建物跡も見つかりました
弥生時代後期〜古墳時代、応神天皇の行宮で難波大隈宮。大王と呼称された倭国の首長で河内王朝の始祖である仁徳天皇の皇居、難波高津宮
以来、飛鳥時代〜奈良時代、再び難波(現在の大阪市)に都が戻り法円坂周辺に造られた古代の宮殿
645年〜793年まで約150年間の皇都
天皇の住まい、政治、儀式の場をはっきりした構造は難波宮が最初であり後の宮にも採用された
また、難波宮から日本という国号、元号、の使用が始まったとされ孝徳天皇は改新の詔を発しその第2条で初修京師として難波宮を日本初の首都とした
大王と呼称された倭国の首長である仁徳天皇の難波高津宮も難波宮が造られた周辺にあったとされる説が最も有力な説とみなされている
朱鳥元年(686)正月「難波宮室が全焼した」という『日本書記』の記録から、孝徳朝の宮室が焼失したものと推定でき、その後に天武朝の宮室が建造されたのだと考えられるようになった
大極殿礎石
回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏
その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれている
前殿が正殿である。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかった
奈良時代には聖武天皇がが藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした
中国の技法である礎石建、瓦葺屋根の宮殿が造られた
平成28年、後期難波宮の朝堂院の西側から4棟の建物の基礎跡が発掘された
四天王寺高校OBのM・Dさんが高校生の頃、ステージで歌われていました














