父が子に 授けし土地に 寺を建て

総欅造、三間五重塔婆、本瓦葺。天保11年(1840年)先代は再建後わずか36年で焼失2

年後に厳曉が再建発願するも安政元年(1854年)になり着工し、3代の棟梁が携わって明治35年(1902年)に竣工した

二重〜五重の内部にも床板を張り人が登れる

心柱は鎖でぶら下げられているがどことも接続されていない構造になっている

『多度郡屏風浦善通寺之記』によれば、善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯田公(さえきの たぎみ、諱:善通(よしみち))から土地の寄進を受け、大同2年(807)に建立し始め、弘仁4年(813)に落成した

空海の入唐中の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂・大塔・講堂など15の堂宇であったという

寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通から採られ、山号の五岳山は、香色山(こうじきざん)・筆山(ひつざん)・我拝師山(がはいしざん)・中山(ちゅうざん)・火上山(かじょうざん)の5つの山の麓にあることから命名された

善通寺の文献上の初見は、『東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)』に収められた寛仁2年(1018)の「讃岐国善通寺司解」(さぬきのくにぜんつうじしげ)という文書である

ここで善通寺は、東寺の末寺として登場し、「弘法大師御建立」「大師御霊所」とされ、空海の先祖による創建だとする伝えが古くから存在したことがわかる

境内からは白鳳から奈良時代にさかのぼる古瓦が出土しており、善通寺は実際には佐伯一族の氏寺として創建されたのではないかと推定されている

本格的に興隆をむかえるのは鎌倉時代に入って、天皇や上皇からの庇護や荘園の寄進を受けてからである