家持が 能登で詠みし歌 三歌なり
剱地阿岸川河畔に建つ大伴家持万葉歌碑
天平10年(738)20歳で、はじめて内舎人(うどねり=律令制で、中務(なかつかさ)省に属する官
名家の子弟を選び、天皇の雑役や警衛に当たる
平安時代には低い家柄から出たとして朝廷に出仕しました
その後、従五位下(じゅごいげ)に叙(じょ)せられ、家持29歳の年の天平18年3月、宮内少輔(しょうふ=律令制の省の次官)となります
同年6月には、越中守(29歳~34歳)に任じられ、8月に着任してから、天平勝宝3年(751)7月に少納言となって帰京するまでの5年間、越中国に在任しました
着任の翌月にはたった一人の弟書持(ふみもち)と死別するなどの悲運にあいますが、家持は国守としての任を全うしたようです。この頃は、通常の任務のほかに、東大寺の寺田占定などのこともありましたが、この任も果たしています
家持の越中国赴任には、当時の最高権力者である橘諸兄が新興貴族の藤原氏を抑える布石として要地に派遣した栄転であるとする説と、左遷であるとする説があります(68歳没)
家持の歌は『万葉集』の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第一位です。しかも家持の『万葉集』で確認できる27年間の歌歴のうち、越中時代5年間の歌数が223首であるのに対し、それ以前の14年間は158首、以後の8年間は92首です。その関係で越中は、畿内に万葉故地となり、さらに越中万葉歌330首と越中国の歌4首、能登国の歌3首は、越中の古代を知るうえでのかけがえのない史料となっています