顕如が 南無阿弥陀仏を 授けし縁

浄土真宗本願寺派「緑照寺」

緑照寺(ろくしょうじ)の開基は、若い頃から浄土真宗に帰依していた肥前国横田出雲介という武士であったという

時の本願寺宗主顕如上人(信楽院)が仏法の敵、織田信長軍との戦いで大坂石山本願寺(現在の大阪城)に籠城されると聞き及び、急いで駆けつけて味方し、身命を打ち捨てて働いて顕如上人に大満足いただいたことがきっかけ

その後、世の中が平穏になった折に上人からご剃刀を受け、法名「行信」と御染筆の「南無阿弥陀仏」の六字名号を頂戴して、天正11年(1583年)頃に宇多大津村に草庵を結んだのが創立の由来である

文禄3年(1594)に検地(豊臣秀吉の太閤検地)があり、当時荒地だった下条大津村(現在地)に検地を請けて、翌年から2、3年後には宇多大津村から移転している

初めは行信の俗名から「東右衛門道場」又は「東道場」と呼ばれた念仏道場であったが、慶安3年(1650)に東本願寺から「緑照寺」の寺号を受け、道場から寺院へと発展

延宝7年(1679)8月以降、第4代住職の了圓が西本願寺に帰参し、12月20日に御本尊の木仏が下附され、翌年4月5日に御開山聖人御影、太子御影、蓮如上人御影が下附されている

建築物に関しては、まず本堂・庫裏は元禄初期にはすでに建立されていたと考えられ、その後、本堂は文化2年(1805)に第9代住職の智圓によって大修復が開始され、翌年春に棟上式が行なわれている

本堂廊下にある喚鐘は、天保9(1838)年に鋳造され現存している

釣鐘堂は、すでに元禄4年(1691)に第5代住職の覚傅によって建立されていたが、天保15年(1844)に第10代住職の圓心によって再建されている