なにとなく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山
4月11日7:14分、御園方面からご来光
なんとなく、春になったと聞いたその日から、今年の桜はどんなに見事だろうかと吉野山のことが気にかかって仕方がない
春分の日に詠んだ山家心中集 (さんがしんちゅうしゅう)』(西行自撰の歌集)の冒頭の歌
西行は、桜の花のころに桜の名所・吉野山に赴いたのでしょう
西行の生年は元永元年(1118年)、没年は文治6年(1190年)
小生の今の年齢で亡くなっている
身分の高い貴族ではありませんが、藤原北家の末流の家柄で、鳥羽院の北面の武士として宮中に出仕していた
西行の俗名は佐藤義清(のりきよ)です。保延6年(1140年)23歳のときに、親しい友人の死で世の無常を知ったため出家したとか、失恋をしたため出家したといわれています
僧侶になってから、陸奥、出羽の歌枕を訪ねる旅、中国・四国地方へ、弘法大師の聖地の巡礼とかつて仕えた崇徳院を慰霊する旅をしました
高野山真言宗の総本山金剛峰寺のある山や伊勢国で暮らし、再び東北を尋ねる旅に出て、その途中で源頼朝にも会っています
旅の中で歌を詠んだ漂泊の歌人としても知られ、後世、多くの人から慕われました
特に、松尾芭蕉は西行を尊敬していました
芭蕉の有名な「おくのほそ道」の旅は、源義経(没年文治5年(1189年))と西行(没年文治6年(1190年))の没後500年後の元禄2年(1689年)のことでした
芭蕉の旅は、尊敬する源義経、西行らの慰霊の意味もあったとされます