高田寺は、平時忠の末裔と伝えられる上・下両時国家の菩提寺である

本尊毘沙門天、左の仏間に釈迦・阿弥陀・薬師如来の三仏が安置されてある

毘沙門天は、四天王の一つで、北方の天主として、古来、北方鎮護・仏法護持の守護神として信仰されている

「仏説毘沙門天王経」に、毘沙門天王は、過去仏・現在仏・未来仏に「我今帰依」とあり、ここに安置されてある三仏も、これに基づく信仰の所産

薬師・釈迦如来像の台座には、それぞれ木製修理札が挿入され、時国又七郎が延宝8年(1680)に父母の菩堤のために修理したことが知られる

阿弥陀如来像も同様と思われるが、延宝の修理札を欠き、嘉永6年(1853)の修理札を有する3

ニ体とも、表面の彩色が剥落しているため寄木や木割が明暸に観察できる

用いられている尺度や寄木法、さらには衣紋などに、それぞれ若干の差違があるが、いずれも平安時代後期の穏やかな作風をもつ

平安時代末期、平清盛によって栄華を極めた平家は、文治元年(1185年)壇ノ浦の合戦で
源義経率いる源氏軍勢に破れ、この時、平家団結の象徴であった安徳天皇は8歳で二位の尼に抱かれ入水しました

平家方生存者の殆どは、鎌倉幕府の厳しい追求の中、離散の生活を始めました
生存者中最高重臣であった平時忠は、源義経との約束により能登の地へ配流され、文治5年2月24日にこの地で亡くなりました

「平清盛」の義弟である大納言「平時忠」は長門国で源義経に捕らわれますが、入洛後に娘「蕨姫」を源義経の嫁として押収された機密文書を取り戻すことに成功し、都に留まり朝廷への出入りも許されていた

その後、平時忠は能登配流と決まり、9月末ごろ都を出発し、現在の珠洲市大谷に到着、仮小屋を建てて住んだ

下時国家は規模が大きく、桁行13間、梁行8間で、南向きに建ち、入母屋造り、平入りで、茅葺の大きな屋根であるが、勾配はやや緩く、4方に瓦葺の庇を巡らしている

間取りは、奥能登農家の大型のもので、役宅部分は、庭に面して奥座敷・中座敷・下座敷と並び、前面の入側を、御縁座敷とよび、濡れ縁が付き、納戸には帳台構の跡が残っている

土間はすこぶる広く、主屋の間口の約半分を占め、3本の独立柱や幾重にも重なる巨大な梁組に、下人を使って大手作りをしていた大農家の往時の生活をしのばせるものがある