平時忠子孫「上時国家」

時国家は元暦2年(1185)に能登国に配流された平時忠を祖とする

時忠は大谷(現・珠洲市)の山中に居を構えていたが、その五男の平時国が姓を「時国」と改めて平野部に居を移し、やがて時国村を興したという

碑には父の名前も刻まれている

天正9年(1581)に能登国は加賀前田藩の藩領となり、一方で慶長11年(1606)に時国村の一部が越中国を本拠とする土方領に替地となったため時国家は二重支配を受けることになった

二重支配を脱するため、寛永11年(1634)に第11代当主藤左衛門時保が二家に分立することを決断した

時国家のうち土方領を本拠とした家は町野川上流に居を構えたことから「上時国家」と呼ばれた

土方領はのちに幕府直轄地となり、上時国家は農業、塩業、回船業で栄えた

天保年間に居を移したのが「上時国家住宅」として残る建物で、平成15年(2003)に重要文化財に指定された

 

民間の建物ながら公開されていたが、新型コロナウィルス禍などによる観光客の減少により維持管理費の捻出が難しくなり、上時国家住宅の公開2023年9月で終了した

上時国家住宅は主屋が大型の民家が多い北陸地方でも最大級の規模とされる

縁金折上格(ふちきんおりあげごう)天井などの内装、土間廻りの豪壮な梁組などの特徴をもち、重要文化財の指定では「江戸末期の民家の一つの到達点」と評価された

揚羽蝶紋

上時国家住宅の西、南、東の三方向に面する庭園で、2001年(平成13年)に国の名勝に指定された

池の護岸や築山に豪快な石組みがあり、背後の山腹から書院前庭に至るまで苔と樹林に覆われている