川辺の渡場跡
現在は堤防が築かれ跡形もない
高積山237m、通称:和佐山
紀ノ川に架かる川辺橋755.5m
和歌山県で一番長い橋
川辺と布施屋を結ぶ
大台ケ原を源流とし、「吉野川」として紀伊山地を北西へと流れ、紀ノ川と名前を変え紀伊水道に注ぐ
中洲や扇状地が広がる
1400年代の地震・津波によって砂丘が破壊されたことにより、紀の川は和歌浦へ注いでいた河道から現在の紀伊水道へ注ぐ河道に変わった
布施屋の渡場
3名がここでエスケープ
雑賀衆・太田党は徳川家康に味方し、羽柴秀吉への敵対姿勢を強めた
このため翌天正13年(1585年)に秀吉は弟の秀長・甥の秀次と共に6万の軍勢を率い紀州征伐に乗り出した
阪和線踏切
根来寺を焼き討ちした羽柴軍は太田党の本拠地・太田城(現・和歌山市太田)への攻撃を開始し、最初は力攻めを行ったが太田党の奇襲による打撃を受け、秀吉は得意の兵糧攻めによる攻撃に切り替えた
石碑と看板だけの吐前王子
そしてこの時秀吉が選択したのは、備中高松城攻めと同じ水攻めであった
高積山