あら

たのしや

おもひは(思い)

晴るゝ

身ハ

すつる

浮世の月ニ

かゝる

雲なし・・・大石内蔵助辞世句

忠魂&義膽

東郷平八郎・連合艦隊司令長官(1848-1934)が赤穂義士を称えて揮毫した墨跡「忠魂義膽(ちゅうこんぎたん)」

「忠義を重んじ守る心」を意味する四字熟語の篆書体。義士をまつる大石神社の柱石に刻む文字として大正初期に書かれた

浅野内匠頭切腹後、吉良上野介は高家肝煎を辞職、呉服橋の大名屋敷を召し上げられている

内蔵助は「浅野家再興と吉良家の処分」に望みを託したが、両方とも可能性が無くなり討入りを決断した

幕府は四十七士に対し、将軍の家来を討ち取った公儀を畏れない不届きな行為であり、権現様以来のお仕置きとした

四十七士切腹後、吉良家預かり地を没収するなど庶民が納得するよう喧嘩両成敗の形を取っている

堀部彌兵衛:浅野長直・長友・長矩の3代に仕え、祐筆を経て江戸留守居となり300石を知行した。四十七士最年長

婿養子の堀部安兵衛(武庸)とともに仇討の急進派の中心人物

元禄16年(1703年)2月4日、幕府の命により、切腹(享年77)、戒名「刃毛知劔信士」

雪晴れて思ひを遂ぐる朝哉

細川(細川氏)の水の(水野氏)流れは清けれどただ大海(甲斐毛利氏)の沖(松平隠岐守)ぞ濁れる

堀内伝右衛門:細川家の家臣、吟味奉行物頭役。討ち入り後、翌・元禄16年2月の切腹執行まで、細川家で内蔵助ほか17名を預かった際の接伴役のひとり

義士の行動に感動し、任務としてでなく積極的に彼らに接し、後世のため志士の話を聞き取り記録した

磯貝十郎左衛門(享年25歳)に母への手紙を書かせ届けるなど親身になって世話をした

内蔵助は堀内伝右衛門に、取り潰しになった250人の家臣が47人になったのは恥ずかしいと語っている

伝右衛門は切腹の日近く、義士達から遺髪をもらいうけ、退職後、遺髪を知行地である熊本県・山鹿へ持ち帰り、菩提寺である日輪寺に遺髪塔を建て、現在も守り継がれている

宝永6年(1709)、将軍綱吉死去に伴う大赦で浅野大学(長矩の弟で後に養子となる)は新将軍徳川家宣に拝謁して、改めて安房国に500石の所領を与えられ旗本に復し、赤穂浅野家は旗本ながら御家再興を果たした

大石内蔵助:1703年3月20日、44歳の生涯を閉じる(お終い)