橋爪門

金沢城、二の丸の正門にあたり、城内で最も格式の高い門とされた

明治期に焼失して以来134 年ぶりに、往時の姿で復元されました

高麗門形式の「一の門」、石垣と二重塀で囲われた「枡形」、櫓門形式の「二の門」からなる枡形門で、枡形は城内最大の規模

「石川門」、「河北門」とともに「三御門」と呼ばれ、二の丸御殿へ至る最後の門として、通行に際しては三御門の内で最も厳しい制限がかけられた

また、二の門の床には二の丸御殿と同じ敷き方で戸室石が敷かれるなど格式の高い門でした

金沢城内の各曲輪(くるわ)をつなぐ城門の内、特に重要であった「石川門」「河北門」「橋爪門」を「金沢城三御門」と呼んでいます

本丸石垣

1583年に金沢城主となった前田利家は金沢城の本格的な築城に着手し、城内の最も標高の高い地点に五層建ての立派な天守閣を構築したと言われています

天守閣の構築年度ははっきりしませんが、金沢城公園にある本丸の説明文には1586年頃と記されています

当時は関ケ原の戦い以前であったことから、徳川家に気兼ねすることなく豪勢な城を築くことができた

三ノ丸の出口門

五層建ての天守閣は1602年(慶長7年)に落雷により焼失

この時には既に徳川家康が権力を掌握していたこともあって、こじんまりとした三階櫓(やぐら)が建造されました

内堀

その後も、本丸に構築された建物は火災によって何度も焼失を繰り返したことから、城内で最も標高の高い地点は、次第に手つかずのままとなりました

内堀石垣

本丸の周囲には3つの櫓跡が残されており、本丸からの方角によって「丑寅櫓」「辰巳櫓」「戌亥櫓」と名付けられていました

続櫓

橋爪橋