大手石垣

崩れてしまい僅かに痕跡が残る

織田信長は翌9月29日に芥川山城に入城し、摂津三守護であった和田惟政を城主に据えた

翌永禄12年(1569)1月5日、三好三人衆は将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する事件(本圀寺の変)を起こした

これに対し和田惟政がいち早く駆けつけ、三人衆の撃退に大きな役割を果たし、この功により高槻城も与えられることになる

惟政は高槻城に入り、家臣の高山友照に芥川山城を預けた

しかし、この頃より惟政は徐々に近隣諸国との間で確執を生じ、元亀2年(1571)8月白井河原の戦いで荒木村重・中川清秀に討ち取られた

その後高槻城は息子の和田惟長が継いだが、これを好機と見た高山友照・重友父子は元亀4年(1573)4月、惟長を追放し自らが高槻城主となった

 

この時に芥川山城は廃城になり、60年に渡る歴史を閉じたと思われる

芥川山城の大手通はこの中央曲輪群の虎口より進入する

この虎口跡には山城には珍しい石垣跡が存在している

この石垣は戦国時代の技術ではあり得ない組み方をしており、現在でも議論になっている

歩を止めず早足でシャッターを押すとさすがにブレる( *´艸`)