極楽の道はひとすぢ君ともに阿弥陀をそへて四十八人・・・内蔵助

赤穂浪士達は討ち入りの日を12月14日に決めた。

これは、吉良上野介がこの日に茶会を開くために確実に在宅している事を突き止めたからである

元禄15年12月14日(1703年1月31日未明)、四十七士は堀部安兵衛の借宅と杉野十平次の借宅にて着替えを済ませ、寅の上刻(1703年1月31日午前4時ごろ)に借宅を出た

そして吉良邸では大石内蔵助率いる表門隊と大石主税率いる裏門隊に分かれ、表門隊は途中で入手した梯子で吉良邸に侵入、裏門隊は掛矢(両手で持って振るう大型の木槌)で門を打ち破り吉良邸に侵入した

表門隊は侵入するとすぐに、口上書を入れた文箱を竹竿にくくりつけ、玄関の前に立てた

裏門隊は吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させた

また吉良の家臣達が吉良邸そばの長屋に住んでいたが、その長屋の戸口を鎹(かすがい)で打ちつけて閉鎖し、家臣たちが出られないようにした

吉良邸には100人ほど家来がいたが、実際に戦ったのは40人もいなかったと思われる

四十七士は吉良上野介の寝間に向かったものの、上野介は既に逃げ出していた

茅野和助が上野介の夜具に手を入れ、夜具がまだ温かい事を確認した

上野介はまだ寝間を出たばかりだったのである。四十七士は上野介を探した

そして台所の裏の物置のような部屋を探したところ、中から吉良の家来が二人切りかかってきたのでこれを返り討ちにし、中にいた白小袖の老人を間十次郎が槍で突き、武林唯七が刀で斬り絶命させた

この老人が上野介であると思われたので、浅野内匠頭が背中につけた傷跡を確認し、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた

そこで合図の笛を吹き、四十七士を集めた

ここまでわずか二時間程度であった

双方の死傷者は、吉良側の死者は15人、負傷者は23人であった

一方の赤穂浪士側には死者はおらず、負傷者は2人で、原惣右衛門が表門から飛び降りたとき足を滑らせて捻挫し、近松勘六が庭で敵の山吉新八郎と戦っているときに池に落ちて太ももを強く刺されて重傷をおっている

吉良上野介を討った浪士達は、亡き主君・浅野内匠頭の墓前に吉良の首を供えるべく、内匠頭の墓がある泉岳寺へと向かった

泉岳寺についた一行は勝粥の振る舞いを受け、内匠頭の墓前に上野介の首を供え、一同焼香した

浪士切腹申し渡し文

内匠儀、勅使ご馳走の御用を仰せ付け置かる

その上時節柄殿中を憚らず、不届の仕方に付いてお仕置き仰せ付けらるに付き、上野儀お構いなしとさしおかれ候ところ、主人の仇を報じ候と申し立て四十六人が徒党致し上野宅へ押し込み飛び道具など持ち出し、上野を討ち候始末。公儀を恐れざる段重々不届きに候、これに依り切腹申し付ける

元禄16年2月4日(旧暦) (1703年3月20日)、幕府の命により、赤穂浪士達はお預かりの大名細川家屋敷で切腹した