堀部たちは、江戸会議のために下向してそのままとどまった原惣右衛門、大高源五と相談の上、上方へ戻っていた大石内蔵助へ書状を送り、上野介の居場所を継続して監視する手はずは整えており、自分は2月に上洛するのでそこで談判し、3月上旬には江戸にもどって討ち入りを行いたい、と具体的なスケジュールを提示してせかした

また、渡世を度外視した浪人生活が一年近くにおよび、当座の生活にも苦しくなる旧藩士の実情をも訴えた

ライトアップ隅櫓

一方、大石にとっては、討ち入りの条件として「浅野家再興 および 吉良家への処分」がどちらもなされないこと、としており、後者がなくなった時点で討ち入りに反対する理由はなかった

しかし、浅野大学に対する処分が下る前に討ち入りをした場合は御家再興に影響が出る可能性があるため、引き続き討ち入りを先延ばしすべきだと主張した

上野介が無理なら息子の左兵衛を討てばよいし 、閉門はたいてい三年で解けるものだから、大学の閉門が解かれるであろう主君の三回忌まで討ち入りを待ち、後悔しないようにすべきだといった

堀部は、大石が前言と違うこと(上野介がお咎めなしになったのに、討ち入りに賛同しないこと)を言い出し、更に期限を浅野内匠頭の三回忌まで延ばすことを提案したことから大石に対して不信感を抱き、原、潮田、中村、大高らと連携し、大石抜きで討ち入りに必要な頭数を揃える方向を模索し始めた

翌元禄15年(1702年)正月9日、原惣右衛門と大高源五が上洛、大石内蔵助と面会して堀部の訴えを伝えた

堀端を泳ぎ回る鵜

その後も京都周辺の旧藩士らと会合を重ねるが、上方勢は吉良上野介の隠居を「是切(これきり)の事と覚悟」はしながらも、早急に討ち入りを決行する方向へはまとまらなかった

大高は彼らの態度について「生煮え」と評し、落胆している

このころ、原から堀部安兵衛へ充てた上方勢の情勢報告では、討ち入り案への理解者として、小野寺幸右衛門、岡野金右衛門、大高源五、潮田又之丞、中村勘助、岡嶋八十右衛門、千馬三郎兵衛、中村清右衛門、中田理平次、矢頭右衛門七の名前を挙げている

※ウィキペディア参照