堀部安兵衛ら急進派はこの屋敷換えを討ち入りの好条件ととらえ、大石内蔵助に討ち入りを迫った
そこで大石は急進派を説得するため、9月はじめごろに原惣右衛門、潮田又之丞、中村勘助の3人を派遣し、さらに10月に進藤源四郎と大高源吾を派遣したが、どちらも逆に説き伏せられて急進派に同調してしまった
遊水池
そこで大石は自ら急進派を説得すべく、10月23日、奥野将監、河村伝兵衛、岡本次郎左衛門、中村清右衛門を伴って隠棲先の山科を出発した
一方堀部、奥田孫大夫、高田郡兵衛は、大石合流前の10月29日、討ち入りを決意するための神文を作成する
西仕切門
ここでは、従来の堀部の主張通り、内匠頭の意志を継いで吉良邸討ち入りを果たすことを誓い、末尾の罰文には、通常は神仏の罰とするところを「御亡君の御罰遁るべからざる者也」とした
また、討ち入りを決行する時期として、翌年3月の一周忌まで、と具体的に期限を定めた
11月10日、芝で旧藩士の会合が開かれた(江戸会議)
参加者は、大石、堀部、原、進藤、奥野、河村、岡本、奥田、高田である
背後は雄鷹台山
堀部は、浅野大学が閉門中に討ち入りをすれば、大学の赦免後にも「人前」が立つし、君臣の礼儀にもかなう、と述べた
一方大石は、大学の安否を見届けることを主張した
結局、先乗りしていた上方の同志をすでに説得していた急進派が優勢のまま会議は進んだ
期限を区切らないと皆の士気が下がる、という堀部の主張を大石も受け入れ、翌年3月に結論を出すことを約束した
12月11日、吉良上野介の隠居と、嫡男義周(左兵衛)の家督相続が許可された
水手門
これを聞いて堀部安兵衛たち急進派は焦り始めた
隠居した上野介が、米沢藩上杉家に養子入りしていた実子の綱憲に引き取られてしまうと、討ち入りが難しくなってしまうからである
※ウィキペディア参照











