一方、堀部は、引き続き吉良邸への討ち入りを念願し、旧藩士から同志を募っていた
堀部は父の代で浪人になってから剣豪として身を立て、高田馬場の決闘で名をはせて浅野家に召し抱えられたことから、堀部の主従意識は、浅野家代々ではなく、浅野内匠頭個人に対してのものであって堀部にとって大学は「主君の弟」に過ぎなかった
天守台
堀部にとっての「忠義」は、内匠頭が伝来の御家を捨ててまで鬱憤を晴らそうとした、その遺志を継いで、吉良上野介を討ち果たすことにあった
赤穂藩が廃藩になってから数カ月の間、吉良上野介および大学の処遇は明らかにならず、また上方の大石と江戸の堀部との間で書簡が交わされたが意見の一致を見ず、事態は膠着状態のまま推移した
大石の御家再興運動は好転する兆しが見えず、一方で堀部は討ち入りが成功するためには大石ら上方の旧藩士の協力が必要で、上方の旧藩士には大石が大勢での江戸下向を厳禁していたためである
当事者である大学は、事件後は閉門されて旧藩士と連絡が取れなくなっており、その意志は不明のままであった
吉良上野介は、刃傷事件で負傷した時点ではおとがめなしであったが、一部では浅野内匠頭に対する裁定の厳しさに対する同情論から上野介に対して厳しい見方も存在した
例えば『易水連袂録』にはもし内匠頭が上野介に対して「意趣」があり、それが「堪忍しがたきもの」なら内匠頭の行動は「乱気」でも「不行跡」でもないはずだと、内匠頭の行動に理解を示している
また武士道の観点からいえば、売られた喧嘩を買わずに逃げるのは、武士にあるまじき不名誉な行為のはずである
上野介はこうした世評を意識して、高家肝煎の辞職願を出さねばならなかったし、傷は14、5日で治ったのにわざと重く見せかけねばならなかったという(『栗崎道有記録』)
上野介は3月23日付でお役御免となった
その後、8月19日に吉良家は呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった
大名屋敷の多い呉服橋と比べ、本所は人気のない郊外であったことから、討ち入りをしやすくするために上野介を郊外に幕府が移したのではないか、とのうわさが江戸に流れた
幕府がなぜこの時期に屋敷替えを命じたかは不明だが、『江赤見聞記』巻四によれば、吉良邸の隣の蜂須賀飛騨守は、旧赤穂藩士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に屋敷替えを願い出ていたというので、こうした事情が影響した可能性はある
※ウィキペディア参照











