当時打ち首が屈辱的な刑罰だとみなされていたのに対し、切腹は武士の礼にかなった処罰だとみなされていたので、内匠頭は切腹を言いつけられた事に礼を言った上で切腹をした
吉良邸討ち入りを明確に標榜していたのは、江戸藩邸詰めの堀部安兵衛・奥田孫太夫・高田郡兵衛の3人であった
3人はこの時点で、20人ほどの同志を得られたら直ちにでも討ち入りをする算段であったが、賛同者は得られなかった
国元での世論については情報を得られなかったため、籠城・討ち死にも視野に入れて赤穂へ向かい、4月14日に到着した
大石は3人に対し、将来の御家再興を視野に入れての自重を求めた
3人は他のものとも意見交換をしたが、いずれも一旦の恭順をとるという大石の意見に従っていたため、3人はこの時点での討ち入りを断念した
これらの議論が行われるのと並行して、収公に向けた手続きが行われた
まず、藩札の引き換えの方針が早々に決定された
藩庁は、藩札の交換レートを六分、つまり額面価格の6割と定め、改易の報が赤穂に届いた翌20日から換金に応じた
この比率は他の藩札処理の事例と比べて破格の高さであった
このとき大石内蔵助は次席家老の大野九郎兵衛と相談し、広島の浅野本家に不足分の金の借用を頼むことにした
広島藩は藩主が不在であることを理由にしてこれを断ったという説もあるが、赤穂改易後に広島藩は鴻池家からの借財が桁違いに増加している
また、延宝8年の赤穂藩藩札が広島藩(現在は広島市)に残っており、浅野本家からの援助があった裏付けとなっている。この件に限らず広島藩は、自藩に累がおよぶのを恐れ、赤穂藩に一貫して冷ややかな態度をとり続けた
※ウイキペディア参照











